「金持ちになっても幸せにはなれない本当の理由」を子どもに教えるには?

 

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かつて若い頃、嫁に「金持ちになってもなぁ、幸せにはなれないんだよ」と話した時に、「それは金を持ったことのある人間が言うセリフ!」と一蹴され、妙に納得をしたのですが、タイトルの通り、「お金持ち=幸福」という公式にはなんとなく違和感を抱き続けています。

そんな中、「世界幸福度ランキング2013」がこのほど発表されました。

で、そこに「金持ちになっても幸せにはなれない」の根拠が見え隠れしていることに気が付いたので、社会学的に考えてみます。


 

国連が発表している世界幸福度ランキングは、富裕度、健康度、人生の選択における自由度、困ったときに頼れる人の有無、汚職に関するクリーン度や同じ国に住む人々の寛大さといった要素(ジオグラフィックニュースより抜粋)を基準に格付けされているものです。

で、ベスト5を見ると、

1位 デンマーク
2位 ノルウェー
3位 スイス
4位 オランダ
5位 スウェーデン

となっています。

日本は世界156カ国中43位で、いわゆる先進国(G7)の中では最低レベルです。

うわ、低っ!と思った人もいるでしょうが、

2011年の時には90位だし、そのほかの幸福度調査などでも日本は軒並み低いレベルなので、印象としては大躍進です。

 

とは言え、GDP世界第3位である日本も然りですが、超大国のアメリカは17位、GDP世界第2位の中国は93位です。

これは結局のところ、「金を稼ぐ国だからと言って幸せな国とは言えない」という証でしょう。

 

でも、これが本稿の答えではありません。

 

では、なぜ、日本はそんなに不幸なのか?

 

その答えは、「共同体の成熟度」という点にあるのではないかということです。

 

GDPトップ3(要するに超金持ち国)の中で、中国は一党独裁という政治的観点から国民の幸福度を比較することが難しいのでこの議論からは省きます。

 

さて、米国、日本とトップ5の違いは何か?

トップ5の国がヨーロッパの国々であるという点に着目します。

この幸福度ランキングのトップ5の国々に共通するのは、「自治体、自治都市がしっかりしている」と言えば分かりやすいでしょう。

自治体とは、国家と個人をつなぐ中間集団で、最小の単位は家族です。

この中間集団が社会において、どういう意味を持っているのかと言えば、

 

独りでは生きていけない、個人という存在を輝かせる

 

ということになります。

これはおそらく大学の社会学の講義でも学ばないところでしょう。

 

自治体とは、個人が生き生きと生きるために、それを認めてくれる近しい集団のことです。

 

近くにいる人間が個人の努力などを認め、その輪が広がっていく。また、そうした社会を作るために、税金などのお金をみんなで集めて、自治体や国家に運営を委託することでその自治体や国家が発展していく。

自分を認めてくれる誰か、何かがなければ、自治体はどんどん駄目になっていくものです。

 

僕はこれをコミュニタリアニズム(共同体主義)の原点だと考えています。

 

一方、米国と日本には、やや共通した「個人主義問題」というのが存在しています。

個人主義には、幅広い意味がありますが、米国と日本における個人主義問題は、功利的個人主義と考えることができます。

これは、幸せになりたければ「生き馬の目を抜くのだ」という考え方です。

分かりやすく言えば、ぼやぼやしている奴は落ちこぼれになるぞ!

という考え方です。

 

その功利的個人主義の効果は、確かに経済成長という形で顕著に現れました。

それこそが「豊かさ」だと、戦後の日本人は考えた。

 

しかし、功利的個人主義の社会では、共同体は崩壊しやすくなります。

なぜなら、周囲(中間集団)は認めてくれる存在ではなく、蹴落としにくる存在となるからです。

この時に、考えたいのは、共同体主義も功利的個人主義も「個人は努力をしている」という点です。

もちろん、現代ではすべての価値観などがフラット化してきているので、ここまで極端ではないかもしれないが、政治学的に見て、そうした風土や匂いがやはり残っているのではないか、と考えられるのです。

そして、そこに、米国と日本、トップ5の国々との幸福度の差があるのです。

 

そして、先進国の中でも圧倒的に低い日本の幸福度にはさらなる要因が付きまとっています。

 

ここまで読んだ人の中には、

「幸福の尺度は個人それぞれ千差万別なのだから、日本が不幸だとは決めつけられない」

と違和感を覚えた人も多いことでしょう。

しかし、

それは、「立派になる」という教育をどのように教えているのか? ということで答えがでます。

 

共同体主義における「立派になる」理由は、

「誰かを幸福にできる者だけが幸福になれる」

という考え方で成り立っています。

だから、「立派になって、より多くの人を幸福にしなければならない」と教えます。

 

日本の教育では、先ほどの「生き馬の目を抜く」という考え方と同様、

「立派な人とは、他者よりも上の地位にのぼれた者のことである」と教えることがほとんどです。

資本主義とは、そういうものだと考える人は、どうぞ周りをよく見てください。

着ている服や持ち物は高級で、一見、立派そうに見える(実際に立派なのかもしれない)けど、

浮かない顔をして満員電車に揺られている人たちのなんと多いことか。

 

ですから、「お金持ちになっても幸せにはなれないぞ」と子どもに説く時には、

「お金持ちになっても、そのお金で、自分ではない誰かを幸せにできなければ、それは幸せとは言えないのだよ」と教えることです。

だからこそ、資本主義の競争原理に勝つことが必要なのです。

競争原理に勝ってお金持ちになることが目的ではなく、競争原理に勝ってお金持ちになった後、そのお金をどのように使い、どれだけの人を幸福にさせられるかを教えるのが競争社会における教育なのです。

 

日本は安全で清潔で便利な高度社会国家です。

しかし、それと引き換えに、幸福の定義をどこかに置き忘れてしまった気がします。

それが証拠に、日本の若年層(15歳~34歳)の死因でダントツ1位なのが自殺で、経済大国のG7の中で自殺が死因の1位というのは日本だけです。

なぜ、そんな安全で清潔で便利な社会なのに自殺率が異常に高いのか?

それは、個人個人は優秀で人格者で才能があっても、共同体という中間集団が崩壊したために、その優秀さ、がんばり、人間的な優しさなどが認めてもらえず、社会に空虚感が蔓延してしまっているからだと考えられます。

 

「人は独りでは生きられない」とよく言いますが、この言葉の本当の意味は、

他者とのかかわりがなければ生きる意味などない

というのが正しい認識です。

生きている意味がない社会では、当然自殺が増えます。

 

こうした社会から立ち直るには、米国に汚染される前の、戦前のころのような、少々危なっかしい社会ではあるが、周囲を認め合えるような自治体を取り戻すことが必要だと感じます。